2009年4月21日火曜日

すべては移り行く

我が家の北側にある犀川はとても大きな川。
その対岸に咲く桜もここ数年で随分大きくなった。

昨日は強風で洗濯物が竿から何度も落ちて大変だったが
ハラハラ散って行く桜を惜しみつつ楽しむ間もショートカッとされてし
まった。

まるで桜を一掃して季節を一気に初夏に進める実行委員会でも
あったのではとおもうように風景からピンクが消えてしまった。

今日もかなり強い風が吹いている。

強風のおかげで大物の洗濯が効率よく4度も回転させる事ができた
今日もその作戦実行中

それにしてもとどまるものは一切ないのが命あるこの世というもの
長い冬から春になる今の季節はその事を一番実感させられる

様々な展覧会を開催している仕事柄
その一回性の奥の深さに改めて思いを巡らせるようになった。

同じ作品であっても、展示する場所や状況でまったく違った表情になる
絵は固定された物体というのば物理的な位置付けでしかない

表現されるものという観点から観れば、その場その一瞬でまったく別物に
見えるのが絵というものだ、絵も音楽と同じでまさに空間と時間ととも
にある芸術なのだ

ただ、音楽と絵では時間の刻まれ方が違うという事なのだろう

長年いろいろな展示を経た後にここ一年間様々な展覧会を通して
私が実感的に確信した事の一つである。

やく2週間の展示を終え昨日アトリエの収蔵スペースにもどった大作の
胎動
次にどこぞで展示されるかもしれないし
もう二度と観衆の目に触れる事はないかもしれない。

破棄されなければ、物体としては残っていくこの作品であるが
展覧会期中に展示されていた、一瞬一瞬に存在していた胎動はもうどこ
にも存在しないのだ。
その会期が終了して壁から外された瞬間に絵は見事にその存在の本質が
消えてしまう。
その変わり目を撤収時に数えきれない程様々な作品で体験している


逆に、長年収蔵スペースで眠っていた作品が梱包をとかれて
姿を表し展示された瞬間に息を吹き返し徐々に輝きを発するようになる
瞬間もこれまた何度も体験してきた。

絵画とは本当に不思議な存在なのである。


みられてなんぼ、、、それが絵画の本質には間違いないだろう、

だから展覧会を開催する事はとても重要だし
出品依頼されたら出来る限り応じるようにしている。
ひとりでも多くの人に私の絵をみてほしいから。

制作するだけではなく、展覧会を開催することは大変なエネルギーを必
要とする事である。

様々な方々がサポートしてくださっても主役である作家の果 たすべき役割はやはり大きい

若い時はその意味の重さが全く理解できず絵に描いたような理想像にし ばられて
あたたかいご縁を祖末にしていた。

若さの傲慢というものである

そんな傲慢さもまた若さの財産でもあるわけだから
今若い人をみるとそういう意味でもまぶしい気がすることもある。

若さゆえの傲慢は世の中を敵に回すリスクをかぶる気概があってのこと
それが生き残る困難さを知らないゆえの勇気であってもまぶしい
ところがそんな気概のあるバカな若い人が少なくなっているのは確かで
目先の世渡り上手な若い人が増えていると思うのは私だけではないだろ う。

それはそれとして、、、
若くない人間の傲慢は滑稽であるし悲しい
気を付けねば!!!


現在横須賀美術館で大作4点を展示中で

10月にはグループ展にも参加する事になっているので
私の発表活動は白紙になっているわけではないが
大きな波が過ぎたのは事実。
そんな充実感と安堵感に今日は浸っている。

外からは様々な小鳥の鳴き声が聴こえてくる
風は強いし天気模様はあまりよくないがそれでも我が家周辺は
穏やかな気配で満ちている

こんな所で暮らせて幸せだ。

かなり疲れてもいるので申し訳ないが今日はゆっくり過ごさせていただこう。