2009年6月24日水曜日

三岸好太郎美術館

札幌には何度も来たが、いつも厳寒期だった。それはそれでなかなかに良い旅だったが、初めてとなる爽やかな緑の季節はやはり良い。というより最高だ。食べ物は美味しいし出来れば夏だけ数ヵ月札幌に滞在して制作したい。高いビルの向こうの抜けるような青空に大きな白い雲が流れていく様子を見ていたらロッテルダムを思い出した。大都会なのに人が少ないのもヨーロッパみたいだ。都市部を離れてみる景色もヨーロッパ的なところが多い。何しろ光の色が違う。三岸好太郎美術館を訪れるのは三度目。緑に囲まれた公園の一角にあった事にも初めて気が付いた。いつも寒くて雪が溶けたぐちゃぐちゃした道を歩いて来たし、木々は葉を落とし芝生は雪に覆われていたのだ。三岸美術館に最初に訪れた時の驚きは忘れられない。日本人離れした色彩感覚とセンスの良さ。絵の具の扱いのテクニックを越えた生理的レベルでの巧みさ。そしてその時初めてみた冬の北海道の夕暮れの光が三岸のピンクと水色にシンクロした時に良い絵は何に繋がっているのかという事を改めて教えられた。三岸は多分人並み外れた自意識の強さ、自己顕示欲の強さを持っていたに違いない。しかし彼の絵にはエゴ
イズムの片鱗もなく、どの絵にも静かな祈りの清らかさが宿っている。彼は描いている間だけは空っぽの受け皿になっていたに違いない。 良い絵とは皆そういう回路を通してこの世界に出現する。どんなに努力しても受け皿にはなれない。だから世間ではそれを才能と言うのだ。いつでも自然に空っぽになれるのは天才。どうしたら空っぽに成れるのかよく分からなくてジタバタする才能ある画家は女や酒に溺れて早死にしたりする。僅かなりともエネルギーを受信した経験のある画家ならだれしもジタバタするものだ。空っぽになり受け皿になる事は簡単に自己コントロール出来ない。そして二度とエネルギーが降りて来ないのではないかという恐怖との戦いが始まる。いずれにしても絵と付き合っていく人生は大変な事に違いない。